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 リンゴを齧りながら、石川拓治著『奇跡のリンゴ』を読んだ。久しぶりのノンフィクションだ。
 いま愚息が食べているリンゴは、農薬まみれで育ったもの。
 アダムとイブが食べたリンゴは。万有引力を発見したニュートンのリンゴは。
 間違いなく無農薬のリンゴだ。
 本書は無農薬無肥料でリンゴを育てるまでの、主人公の木村秋則さんの八年間の葛藤を、精緻に活字化したものである。なぜ木村氏は無農薬のリンゴを育てようとしたのか。それは単純な動機だった。細君が農薬に対して過敏に反応してしまう体質であるから。
 世間ではアレルギー体質の方も大勢いらっしゃることだろう。その人が家族の一員ならば、何としてでもそれを回避させようとおもうだろう。木村氏も同じだった。
 農薬をやめたら、木村氏の畠では寄生虫が大量に発生し、たちまちリンゴの木が病気にかかり、瀕死状態に陥った。それを阻止するために試行錯誤を続ける。だが一向に良くならない。瀕死状態に陥ったのはリンゴの木だけでなく、木村氏の家庭も。リンゴの生産が無くなれば収入の無いのだ。経済的危機に陥るのは当然の成り行きだ。だが、それでも無農薬のリンゴを作ろうとする。そんな直向きに家族は不満も漏らさない。
 しかし、あらゆる手を尽くしたが、どれも効果は無かった。木村は自殺をしようとし、山に登った。そこには立派な木があった。もちろん農薬なんかに頼らずに。そこには自然がすべてだった。木村氏はそこから学んだ。
 市場に出回っているリンゴは農薬により無菌状態で育ち美味しい実が、秋には収穫される。農薬が無ければ自らの力では生きてなゆけない。点滴をしながら生きているのだ。
 自然から学び、奇跡のリンゴを育てることに成功した木村氏のリンゴの味は、まさしく自然が作り出したアートなのだ。それはアダムとイブの食べたリンゴの味に最も近いかもしれない。
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 『ぱしゅみな』は、2000年8月に刊行された平塚宣子さんの第一歌集である。書名は、「あとがき」に著者が「デパートで何気なく手に取ったパシュミナストール、その素材のもつ風合いが私の心に触れてくるのを感じ」とあるように、平塚さんにとってよほどその語感が心地よく、印象的だったことだろう、それが由来。

  ぱしゅみなにおもへば遠くネパールの山羊の柔毛に春の風吹く

 平塚さんが短歌を作ろうと思ったきかっけは、万葉講座に出席したおり友人の誘いを受けて、1976年12月に初めて歌会に参加して以来、31文字の世界に傾倒した。したがって、この歌集の底流には、短歌を作りはじめて20年、蓄積が滔々と流れている。20年のあいだに作られた歌の中かで珠玉の歌が選び出された。多くの歌から選択するのも歌人としてのセンスの良さが解る。

  喉ぼとけの下のボタンを外しつつ「短歌はつまり」と切り出せるやつ
  かみ合はぬ雨夜の空気つんとして背なか合はせに咲くしくらめん
  紅筆にたつぷりつけし春のいろくちびるに置くまでのときめき
  いつさいのイントロなしの講演のこれぞ美意識ドナルド・キーン氏

 これらの歌は、女性の視点から描かれ、じつに洞察力の鋭い歌でありながら、どこかしら笑いが漏れてきそうである。今から15年以前の歌とは思えない斬新な発想で、じつに心地よい。
 平塚さんは若い時から心臓を悪くし、慶応病院でも3本の指に入るくらいの患者であり、それを克服したのは、本人のつよい意志と家族の協力があったからであることは、言うまでもない。なによりも、歌を作ることが良き薬だったことだろう。しかしこれらの歌には悲壮感はない。一首一首が平塚さんにとって最後の歌という気持ちで作られたのかもしれない。 

  わたくしは十歳齢を重ねたり人工弁も十歳となる
  胸と胸合はせば哀し人工弁移りて君に金属音たつ
  夢ならぬ山頂踏めば人工弁しきりに動くを撫でてやるなり
  わが感情われよりさきにキャッチして人工弁の音高まりぬ

 いつしか愚生は平塚さの歌をこう評したことがあった。「大胆かつ繊細な歌」と。平塚さんはその言葉が気に入ったようで、「わたしO型なの」と言っていたことを思い出す。

  投球の術もさまざまああ嘗て東尾投手は顔にて投げたり


 平塚さんはその後、第二歌集『 れいんぼーぶりっじ』を刊行。こちらも感性豊かな歌群が並ぶ。愚生は五月に入りさわやかな風が吹き込む書斎で『ぱしゅみな』を読んでいる。刊行から15年経った今でも新しい。名著に相応しい歌集だ。

  
平塚 宣子  現代短歌「舟の会」会員、央短歌会会員
  
 




 
 句集『花行』は2000年9月10日ふらんす堂から刊行された、フランス装の文庫版の句集である。清楚な装丁で、紙の選び方といい、編集者のセンスが光る造本である。
 跋文によれば、20世紀最後の花を見届けようと、著者が上野、千鳥が渕を皮切りに、京都、初瀬、大宇陀、吉野、弘前、角館をめぐり、旅のなかで詠まれた花の句、さらに50年に亘って詠まれた花の句を収録したのが句集『花行』である。本書の題名は吉野山の西行庵跡を訪ねた折「吉野山梢の花を見し日より心は身にもそはずなりにき」「佛には櫻の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば」の歌を思い出し、旅の空で花と対話をし高橋さんは「上人にとつて花を見ることも行だつた」と悟ったことに由来する。
 高橋睦郎さんは日本を代表する詩人であるが、短歌や俳句を詠み、定型詩の可能性を模索し、さらに新作能を手掛ける。それらは精緻で、卓越した審美眼をもって語られている。小生が書生であったときに、原稿を受け取りに、そのころ住まっておられた経堂にあるご自宅(洋館)を訊ねたことがあった。また、或る時は有楽町や伊勢丹美術館の「ダリ展」の会場でお会いしたことを思い出す。大きな升目の原稿用紙に、几帳面な文字が書かれていた。高橋さんは、最初は近づきがたいような、どこかしら、神秘的な雰囲気を持っていたような気がした。話をしているうちにやさしい眼差を向けてくださったことが印象にある。

  夕顔の白きより暮れ暮れ残る
  小町の花西行の花飛んで迅し
  身に添はぬ心や空に咲きつげる
  
 夕顔の大輪の花の白、夕暮れ時に見せる表情。薄暮になりつつあるなか、白い花弁はいっそう白が映える。そこに咲く花は、目の前に咲くばかりか、いにしえ人の面影にそっと寄り添って咲く。花は空無そのものである。





花行
 書庫に堆く積み重ねられた、段ボール箱を物色していたら、福永武彦著『廃市』が出てきた。
 20代のころに、早稲田通りと明治通りとが交差するところからほど近い、古書店で購入したものである。不思議と、新刊書はいつどこで購入したか、記憶にないが、古書は数十年たってもよく憶えている。また、その頃どんな傾向の本を読んだかも、おおよそ検討がつく。
 福永武彦といえば『草の花』『風土』『忘却の河』といった長篇小説に名作が多い。中編小説では、夜の三部作の「夜の時間」などがある。それらは、文学青年だけでなく、多くの読書子の定番の書であった。ゆえに青春時代に読んだ本として、心のなかで、今も大切にしている方も多かろう。
 小生もそれらを読み、数十年たって読み返してみても、場面ごとの細部にわたる情景描写や会話まで、清々しく思い出される。やはり、青春時代に読んだ本はいいなぁ、その頃もっと多くの本を読むべきだったなぁ、と半分後悔している。
 この『廃市』には「廃市」「沼」「飛ぶ男」「樹」「風花」「退屈な少年」といった短編小説が収められている。福永武彦に限ったことではないが、短編小説は、その作者のもつ文学観が凝縮されているので、読み終えると、緊張感とある種の疲労感に襲われる。あたかも、作者がすぐ傍にいて、対話しているような錯覚を覚えるからであろう。ことに福永の作にはそれが強い。
 福永の履歴は、まさしく闘病歴ともいえるくらい、永いあいだ病床で過ごされた。病床で何を思い、何を考えたのか。福永は、絵画や音楽をこよなく愛し、小説のなかには、その二つが巧みに織り込まれ、人生の深淵まで降りたって、自己を凝視している。福永は、芸術のように生きるのではなく、人生そのものが芸術でありたい、といったようなことが描かれていた(気がする)。まさにそうありたい。
 『廃市』に収められた短編小説を読み終えると、人生の第4コーナーに差し掛かった小生は、どことなく気恥ずかしく感じられる。あの頃のほろ苦い思い出が蘇ってくる。そして半生を振り返ってみれば……。いま改めて、それらの作品の慷慨を、ここに記すことは、なんだか手垢がついてしまいそうで、躊躇してしまう。なぜならば、青春時代に読んだ本であり、感動した作家だったからかもしれない。
 最近、何事も感動することが薄れてしまい(若年痴呆症? いや痴呆症予備軍かな? いいえ立派な痴呆症で~す、とワイフに言われそうだ。弱いものいじめはしないでくれ!)、近刊の書で感動した本は、少なくなった気がする。ならば、若い時に読んだ本でも、読み返そうか、ふっと思った。
 高名な免疫学者で知られる多田富雄は、多大な功績を残した。その一方で、すぐれた著作がある。著書の多くはエッセイであるが、どれも珠玉である。多田は学生時代から、能楽に造詣が深く、鼓は素人の域を遥かに超えている、と言われるほどであった。原爆や脳死を題材に、多くの新作能を手掛けた。多田が能舞台で羽織っておられた裃には、免疫学で使われる記号があしらわれていた。
 昨年、鬼籍に入られた。2007年に刊行された『寡黙なる巨人』を、いつしか読もうと思いながら、そのままにしておいた。桜が咲き始めた或る朝、ふと思い出して読んでみた。
 多田富雄は、2001年5月2日に旅行先の金沢で、脳梗塞で倒れ、重度の後遺症が残り、爾来、闘病生活を送りながら執筆活動を行った。脳梗塞に遭遇したが、幸い命は助かったものの、身体的な自由を奪われた。構音障害で声を失い、さらに右半身麻痺により筆を持つことが不能となり、嚥下障害で飲食が出来なくなった。
 そのような状態にもかかわらず、強靭な精神力で歩行訓練、言語機能回復などのリハビリに励み、さらにワープロを習い、執筆活動を再開した。本書『寡黙なる巨人』は、そのような状況下で書かれて「小林秀雄賞」を受賞した。
 利き手でない左手のみで、ワープロで文字を入力していくわけであるから、健常者の十倍の時間を要して、キーボードを打つ。そこには凝縮された言葉と行間には、多田の思いが詰まっている。『寡黙なる巨人』は単なる闘病記ではない。中身を触れることは不要であろう。身体的自由を奪われたことにより、生きることを意識していく。

  旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

 芭蕉の晩年の句のごとく、脳梗塞で伏し、三日のあいだ生死の境をさ迷いながら、謡曲「羽衣」を謡い、自分が生きていることを悟ったと言う。多田富雄は、その時から寡黙の人となったのである。リハビリを開始した時から、彼の中にはもう一人の自分が生まれた、と自覚する。
 多田は白洲正子と深い交友関係にあった。正子は小さい時から能を習っていたので、多田との会話では「あの曲のあの場面」と言えばすぐに話が通じる仲であった。正子が亡くなり、10本目の新作能「花供養」を書かれた。
 正子の書斎からは庭の藪椿が見えた。こよなく白椿を愛した。正子の面影を彼女が愛した白椿と重ね、正子への思いを、謡曲の詞章に織り込んだ。多田は正子にもう一度会いたいという気持ちが強かった。晩年の正子がふとみせる寂寥感を、後場の老婆に託した。2008年12月26日、白洲正子没後10年追悼公演、一夜限りの「花供養」が行われた。多田は能楽堂にいくことは、死者と会うため、と言っておられたことが印象的である。両親、兄弟、恩師らと会うためである。
 多田も死者になって、今ごろ正子を来世で能の話をしているだろう。
 
 小生の拙宅は、柿生緑地の中にあり、窓から山桜が見える。今年の春は、退屈しのぎに、ひねもす桜を見ていた。桜が咲き開いてから、春の嵐が二度ほど吹き荒れた。だが、桜は散らなかった。桜は風で散るのではなく、重力でもない。季節の移り変わりの中で、自らの重さに耐えきれず、桜は散るときを知るのである。花が散るから、若葉は生えてくるのだ。やがて、秋になり落ち葉が落ちなければ、来春には若葉は生えてこない。それは自然の営みに他ならない。
 『寡黙なる巨人』を読み、多田富雄の人生と窓から見える山桜が散る姿を重ねてみた。小生にとって今年は感慨深い桜となった。
 
  さまざまな事おもひだす桜かな

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