FC2ブログ

プロフィール

獺祭堂主人

Author:獺祭堂主人
相模之國柿生隠棲
主夫兼編集者
アルコール常用者

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

お知らせ

①粋曜喫茶室編集『江戸文化カフェ』発行

リンク

獺祭堂のお客様

検索フォーム

RSSリンクの表示

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

 『園芸家12カ月』は紛れもなく迷著であるに異論はあるまい。
 著者のカレル・チャペックはチェコの作家・戯曲家でもありながらも、こよなく花を愛した。それが実体験となって『園芸家12カ月』というエッセイになった。
 チャペックは大の園芸家であった。本書を読めば彼の園芸好きか、が一目瞭然である。なにせ、このエッセイには280種類の植物の名が登場する。園芸専門書に匹敵する程で、しかも実にユーモアに富んで文章が綴られている。残念なことに愚生は、花の名前が書かれていても、どんな花なのか知らない。よって、イメージすらできない。
 この本はユーモアが富んでいるの述べたが、チャペックは実に園芸には精通していることであろうか。また良く観察している。

 素人園芸家になるには、ある程度、人間が成熟していないとだめだ。
 本当の園芸家は花をつくるではなくって、土をつくっているのだということを発見した。
 園芸かは、植物をいじる商売だとは思っていない。一つのサイエンスであり、かつ芸術家だと思っている。


 園芸家は年中忙しい。土を耕し、肥料を与えて土作りをし、ようやく種を蒔く。そして水やり、除草などを繰り返して花が咲く。咲いてからも支柱を立て、追肥を与える。秋になり庭の花が枯れてしまうと、来年何を蒔こうか思案する日々。だから「急に園芸家は思い出す。たった一つ忘れていたことがあったのを。―それは、庭を眺めることだ。」と語るチャペックの声が聞こえてくる。
 近年はガーデニングブームである。ガーデニングは西洋から来た文化ではなく、元祖は日本の文化であった。江戸時代、江戸の町には大名屋敷が点在した。そこの広い敷地には庭園作られた。参勤交代で江戸に来た、地方の大名が故郷の木などを持ち寄って、移植した。庭には故郷の山に見立てた岩を置き、小石を敷き詰めたりして故郷の風景を造園した。
 チャペックの庭は、日本のそれとは大きく異なるが、花を愛する気持ちは変わらない。
 園芸に興味を持ってる人は、晴耕雨読のごとく、晴れたら土を耕し、雨が降ったら本書を読んで、心を耕してほしい。


スポンサーサイト



 佐藤多佳子著『一瞬の風になれ』はさわやかな青春小説である。
 老境に片足を入れた愚生は、十代のころ青春ドラマが流行っていた。例えば「これが青春」「われら青春」などは高校のサッカー部、ラグビー部を舞台にしたもの。
 さらに「俺たちの旅」「俺たちの勲章」などの「」シリーズは「オレオレ詐欺」の先駆けでなく、こちらは少し年齢があがり、大学生以上の生態を描いたもの。

 『一瞬の風になれ』は春野台高校の陸上部を舞台にした小説である。
 主人公の俺(新二)と幼馴染の連が陸上部に入り、インターハイを目指す話である。

 愚生が十代のころは青春ドラマやスポーツ根性ものがなぜか流行った。作者の佐藤さんは愚生より二歳年上で、おそらくそれらを見て一喜一憂したかも。ちなみに佐藤さんは、偕成社から刊行されていた『MOE』という童話月刊誌の文学賞を受賞している。受賞作は「サマータイム」。愚生は『MOE』を創刊当時から購読していたので、受賞作を読んでいた筈。

 親友の連はまさに天才アスリートであった。一方、新二は中学生のときはサッカーのクラブチームで活躍していた。兄は日本代表候補のサッカー選手。高校卒業と同時にプロチームに入いるほどの実力者。新二は兄ほどサッカーセンスが無いと悟っていた。そんな新二の試合を見た連は彼のスプリンターとしての才能を見抜いていた。
 春野台高校に入学し、ふたりは陸上部の門を叩いた。連は天性に恵まれ、中学時代ではスプリンターとして名を馳せていた。だが、天才と称されるものほど努力を嫌う。例えば合宿では練習について行かれず脱出を図る。食事は好き嫌いが激しく食は細い。練習は休む。試合も。新二は努力型で、練習によって潜在能力を引き出してゆく。
 そんな連は試合で辛酸をなめるにつれて、練習に打ち込むようになる。新二は変わりゆく連とともに練習を重ね、記録を伸ばしてゆく。いつしか新二は連をライバル視するようになっていた。連に勝ちたいと思う気持ちが芽生えてゆく。
 陸上部はさほど有名ではない春野台高校に、しだいに実力を兼ねそろえた集まるようになり、リレーではライバル校に勝つための人材がが揃う。選手層が厚くなり、新二と連が3年の時にリレーで全国大会出場(インターハイ)を狙えるだけのチームに成長してゆく。そして……。といった内容。
 チームの成長と選手としての成長。まさに十代の若者の理想像を描く本書は、高校生にお薦めの一冊。この本は全三巻。電車の中で少しずつ読みちょうど一週間で一冊のペースで読了。

 追記
 『一瞬の風になれ』を読み、愚生のボケ防止にいい刺激となった。もう一度青春しよう、と思う。ジョギングシューズでも買おうと思ってしまったほど。だが、このブログを入力中「青春」と打つところ「清酒」と何度打ち間違えたことだろうか。やはり愚生には酒の方がよさそうだ。
深沢眞二/深沢了子編『芭蕉・蕪村春夏秋冬を詠む』春夏編・秋冬編


 本書は「春夏編」と「秋冬編」の全二冊からなる。
 芭蕉と蕪村の発句鑑賞の指南書だ。
 そんじょそこらの指南書とはちっと違う。季語に内在する本意を、先行文芸ではどのように扱われているかを詳細に検証している。和歌・連歌・漢詩・謡曲・随想・小説など、異なるジャンルを縦横無尽に提示して、芭蕉と蕪村がそれらを意識下に置きながら、発句に詠み込んでいるかアプローチ。俳諧は江戸時代に確立した新興文芸であるゆえに、伝統文芸と向き合いながら独自性を打ち出した。その意味では芭蕉は和歌や連歌に匹敵するまでに深化させた。
 本書を編む発端は、大学で教鞭をとっているお二人の講義の配付資料を、PCに打ち込み、それを体系的にまとめあげたことによる。したがって、本書はいわば公開講座といっても差し支えないだろう。現役の日本文学科の学生だけでなく、社会人の方も読まれることにも配慮がなされている。原文に対してやさしい現代語訳なされているのが嬉しい。
扱われている季語は以下の通り。

春 新年・花・蛙・三月三日・行く春/暮春
夏 衣更え・五月雨・ほととぎす・若葉・短夜
秋 紅葉付鹿・月・砧・虫・秋の暮
冬 時雨・雪・枯野・冬籠り・年の暮


 これらの多くは『万葉集』や、『古今和歌集』をはじめ勅撰和歌集で、定番の季語として詠まれた。
 本書扱った季語のうち、圧巻なのはやはり「月」の部である。連歌書の『四道九品』には、月の推移に応じて、初・中・後に細分化して、月の本意が書かれてあり、興味深い。そして「月を詠んだ歌を、心理的タイプによって」例歌としてあげている。
 愚生の乏しい知識では、「月」が秋の季語と扱われるようになったのは、『金葉和歌集』に入ってからのような?気がしたが、本書を読みつつ、それらの文献を横断的に観ていくと、月に限らず、日本人の歳時記意識が芽生えく様子が窺える。そこには美意識の文学史が読み取れる。また一雪著『歌林鋸屑集』の「名月」には、数多の関連する「月」の季語が列挙されていた、記憶がある。名月に関する詞が多いということはそれだけ日本人が好んだ風物であったことの裏付けとなるだろう。
 それはともかく、芭蕉・蕪村の句の解釈について、たとえば
 若葉して御めの雫ぬぐはばや
の句について、山田あい氏の説を紹介。
 古池や蛙飛び込む水の音
 では深沢眞二氏が、かつて若き日に『雅俗』で発表した、この句の読みを『袋草紙』の説話を用いて衝撃的な論をさりげなく紹介している。従来の読みから積極的に読み替えているところに、氏の研究における芭蕉の可能性を瞠目しなくてはならない。氏は「これからも、芭蕉のことば遊びの面白さがもっと発掘されることを期待したい」とある言葉の裏側には自信が感じられる。欲を言えば、芭蕉句VS蕪村句まで踏み込んで欲しいと思うのは贅沢か。

 本書には「コラム」欄があり、一寸したコーヒブレイク。愚生のお薦めは「忘年会」である。筆者S氏の経験談だろう「自らをコントロールできる状態を保ちながら酒の味わいを楽しむのであれば、酒は暮らしに充実をもたらしてくれます」とは、酒豪家の弁にほかならず、ご自身への警笛、さらには慰めにも聞こえる。酒豪家は宿酔いの朝に「今日から酒はやめた!!」とは言わず「明日から酒はやめる!!」と言いつつ、数十年の歳月が流れている。
 本書を読んでいるいるうちに文学に酔っている気分になるのは、行間から溢れるそれを感じないわけにはゆかない。

 春夏編・秋冬編 ともに本体1800円+税
 三弥井古典文庫



芭蕉・蕪村


 法政文芸』11号の特集は「古典の再創造」である。今号のインタビーは池澤夏樹氏の話は白眉である。
 池澤氏は2011年に『世界文学全集』の編集を行い、大胆な作品選定で話題になった。次いで『日本文学全集』の編集も行っている。こちらも取り上げる作家・作品は、ほかの全集とはだいぶ顔ぶれが異なる。
 このインタビューには、古典作品の現代語訳について興味深い話があり、いろいろと参考になった。かつて三島由紀夫は「日本の古典を現代語に訳するなんて冒涜である」と言っていたそうだ。しかし、池澤氏は「僕は俗な人間だから……だから(古典文学)をジーパンとセーターに着替えてもらおう」とした。この全集の古典作品の現代語訳を、比較的メジャーな作家に依頼しのは「学者がやると正確だけど面白くない。言い換えれば文体が欲しかった」と。自らも『古事記』を現代語訳したそうだ。たしか福永武彦も『今昔物語』の現代語訳がある。
 中学・高校で習う古典は、受験勉強のための授業で、ちっとも面白くない。現代人が1000年以上の前の文章を読んで、貴族が羽織っている着物や宮廷生活の様子を想像するのはまず不可能だろう。江戸時代を代表する作家、井原西鶴の作品群を原文で読み、その当時の町人の暮らしを想像する以前に、あの文体を理解するのは至難な業である。あの独特な文体の背後には、俳諧的な省略・談林独特の飛躍や謡曲や小歌のリズムは流れている。それを感じながら作品に迫ろうとするには読書というよりも勉強になってしまう。あまたの注釈書を座右に置きながら、眉間にしわを寄せ丹念に読めば少しは理解できるだろう。その代わり一番大切な作品を味わうことを放棄してしまうことになる。
 中学・高校の古典の授業のおかげで古典文学が嫌いになった人は多かろう(どうしてくれる、文科省の東大卒の奴め)。
 しかし、古典の良き現代語訳に出会い、それが面白く感じた人もいるだろう。また、漫画などを観てその作品を原文で読みたくなった人もいるだろう。古典文学の入り口は必ずしも原文である必要は全く無い。
 本書の同じ特集記事に「時めく古典アンケート」で、古典作品を翻訳することに対してどう思うか、という設問の回答で、「古典への関心を増すために、必要なこと」と肯定的な意見が多かった。愚生も同感である。入り口は何でもよい。興味があれば原文を読めばね。もし古典の現代語訳が怪しからん、というなら外国の文学の翻訳も怪しからんことになる。ロシア文学なら自力でロシア語で、フランス文学ならフランス語で、読まねばならぬ。こんなナンセンスなことは言わずもがな。ドナルド・キーンさんは『源氏物語』の翻訳を読み偉大な日本文学者になったのだ。
 ならば三島君に遠慮することなく、堂々と古典を現代語訳で読もう。話題の池澤編『日本文学全集』を読もうかしら、と愚生はふっと思ふ…が。
 その前に『法政文芸』を読むべし。若手の珠玉の文芸作品が多く掲載されている。必見ですぞ。巷間ではお歳暮の季節である。心よりお待ちしている。
 余生をどう生きようか。愚生は考えた。
 今更のことだが、愚かなことに、愚生は今日は明日があるという前提で生きていた。面倒なことは明日に回そう、と言ったように。
 しかし、先日親しくしていた人が亡くなり、生き方を変えねばと思った、その時に細川護熙氏の『跡無き工夫』を読む機会を得た。本書は湯河原で蟄居している、元総理の細川氏の余生の生き方を綴ったものである。氏は永青文庫の理事長・陶芸家という顔をもつ。
 古典文学から感化され、吉田兼好・本阿弥光悦などの古人の生き方に、氏の独自の生き方を重ねている。
明日は御座なく候
一日生涯
 これらの言葉には、明日は無い。今日がすべて。今をどう生きるか。一日一日を精いっぱい生きること。

 愚生はこれと言って、秀でたものは無い。もちろんお金も。かと言って平凡な人生を送ってきたのではない。今まで生きてこれたことに感謝し、なにか世のために役立つことをしようと思う。安倍政権によって、国立大学は人文学を切り捨てにかかっている。大学では文学部や日本文学科と言った名称が消えつつある。将来、日本はどうなってしまうのか。古典文学離れが進んでいる昨今、やがて日本は世界に誇れるものの一つが失われてしまう。そのために、何かせねばと。
 愚生は『跡無き工夫』を読み、残りの人生は、余計な物は持たない、贅沢はしない、酒は飲むが、シンプルライフで。.

 

| ホーム |


 ホーム  »次のページ