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 先日、浅沼璞さんの『西鶴という鬼才』の電子化について、書かせて戴いた。
 翌日に浅沼さんからメールを戴き、それによると、NHK―BSの番組に登場するそうである(以下参照)。ぜひともご覧戴ければ幸いである。

 じつは『西鶴という鬼才』がBS歴史館のリサーチにひっかかり、
西鶴特集の取材を先日うけました(これも紙媒体の恩恵です)。
5月24日(木)夜8:00~9:00チラッと出るだけだと思いますが、
もしお時間があればご覧いただきたく存じます。

取り急ぎ。                     浅沼 璞 拝


 浅沼さんは連句実作者、西鶴研究者、教育者、文筆家として各方面で活躍中。西鶴さながらの才覚を持っておられる。著書は連句関係のものが多い。
 俳句や短歌に比べ連句は、今一つ人気がない、というのが小生の率直な感想である。その要因の一つに式目(決まりごと)の煩雑さがあるのだろうが。それ以前に認知度が低いからかもしれない。
 数年前まで、連句の作品集の校正をしていて、連句の実作者は、年配者に多いことを知った。作品の内容をみると、俳句や短歌にはない面白さがある。思わず校正をしていることを忘れて、読み耽ってしまった事を覚えている。もしかしたら、若い方に受け入れられる要素を孕んでいるのではないか、と感じた。じじつ浅沼さんや深沢眞二さんは、大学の授業で連句実作を行っている。文芸作品のは、密室のなかで孤独に創られる。しかし連句は一座に集って巻く。つまりは、共同作品なのである。
 他人との関わりが希薄になりつつある現代。人との絆を、連句によって作るのもよかろう。最近は、インターネット(ブログやツイッター)を利用して、文音のみで連句を巻いているグループが増えてきている。どんな形でもいい。伝統文芸である、連句を普及させてもらいたい。実作を通してそれを入口に、西鶴や芭蕉に興味を持っていただきたい、と思う。
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       『西鶴という鬼才』電子化によせて

 
春まだ浅いとある日に、浅沼璞さんにメールをしたときの返信に『西鶴という鬼才』が電子化されると書かれてあった。しばらくその事を(暇がありすぎて)すっかり忘れていて、本日、浅沼さんのブログ「連句パワー」を開くと「好評をハクした『西鶴という鬼才』、このたび電子書籍として配信されました」とあった。詳細はここから
 本書は2008年2月に新潮新書で「新書で入門」のシリーズの1冊として刊行されたものである。最近増えている「いきなり文庫」の新書版、つまり書き下ろしの新書である。
 本書の書評を島本昌一先生が書かれているので、その一節を紹介しよう。

 著者は独特な術後を使って連句の可能性を追求し、既に実作・研究両面での令名を持っており、本校以外にも幾つかの大学で教えておられる。
 今「独特な術後」と言ったが、それは著者の長い西鶴連句研鑽と共に、その連句の世界に共通する現在若者の言語・文化感覚の洞察に由来する術後を指している。
 本書はその成果をもって、難解かつ多作をもって聞える西鶴の作品世界に読者を導こうとする入門書である。西鶴の発句・連句を導きの糸とした叙述は大変ユニークであると言えよう。
 
 『日本文學誌要』第79号(法政大学国文学会発行)より一部抜粋

 新書版の採算ラインは初版でおよそ4千部ぐらいであろうか。本書はすでに新刊書店では手に入らない。完売してしまったからである。そうなると版元は重版をするか迷うところだが、電子書籍の普及により、重版というリスクはとらない。とっても売り切れ御免はしない。その代わりに、電子化で対応しているようにみえる。つまるところ読みたい読者は電子端末で読め!! ということである。がんらいアナログ派の小生に限らす、他の読書子にとって、大変な迷惑である。紙媒体であると、そこに手軽に書き込み(アンダーライン・メモ書き)や付箋を貼る事が容易にでき(一部の受信端末では可能らしいが、落書きや絵も自由にできる)、あとで調べものをするに、それが大変重宝するからである、それだけではない。小生の極秘の活用方法があるのだ。それは内緒。
 出版社は、営利団体だからとうぜん利益を追求せねばならないことは、仔猫でも獺でもわかる。天下の新潮社がたかが4000部ぐらいの在庫を抱えるのは、大した事ではなかろうが。2年ぐらいの時間をかければ、在庫は無くなる筈。
 ただ読書子のひとりから言わせて戴くと、なんでも電子書籍にすればそれで済む、という画一的な考えは、如何なものか(小生は本気で怒っている)。電子書籍にする本、重版をする本の切り分けがあってもよかろう。その見極めこそが編集者のセンスと言えまいか。
 浅沼さんは都内の大学(法政・武蔵野・日大)で教鞭を執っておられる。学生は紙媒体のそれを欲しているに違いない。もし小生が学生だったら署名をしてもらう、かも。
 つい愚痴になってしまったが(最近独り言が妙に多い)、じつはこの本が電子化されなくて、そのまま絶版になったら、小生が本をつくろうか、と本気で考えたのだが。
 とまれこのブログを読まれた方は是非とも『西鶴という鬼才』を電子書籍で。そして満員電車のなかで「電子書籍でよかった!!」と言わんばかりの、清々しい顔で読んでいただきたい。アナログ派の小生もさっそく購入し、スマホをこちょこちょいじくっている女学校生に、その端末をちらつかせてみようかしら。
     研究者の実態について
 大学の非常勤講師の年収が、去る3月2日の東京新聞に掲載されていた。それによると、年収149万円以下が19.6%、150~299万円が33.4%(2007年)で、平均年収は300万円ほどである。
 フランス語やフランス文学を教える、非常勤講師の50代のある男性は、複数の大学で教えている。一齣当たり月2万5千円、1回の授業に換算すると6千円程度となる。授業のための準備やレポートなどの採点に掛かる時間は、労働時間には考慮されない。しかも講師の場合、研究室はない。自宅が研究室の代わりとなる。本代やパソコンやネット接続に掛かるランニングコストは、すべて自腹である。
 また、同じく東京新聞(4月13日付け)には「職にあぶれる若手研究者」と題して、ポストドクターについての記事が載っている。政策もあって、大学院在学者が1991年には9万9千人であったが、2011年には2.8倍の27万3千人と増加している。博士課程を修了し、さらに研究を目ざす人は、ポストドクターとなって、研鑽を積み、大学教員や研究機関などの常勤のポストに就く、というシナリオを描いていただろう。だが、実態は「常勤教員を想定していた博士の多くが職にあぶれ」ている、という厳しい現実が待っている。
 大学の授業の半分は、非常勤講師が行っているのだが、ふたつの記事から、現実が浮き彫りにされた。小生は学生のころに講師の方に、多くの学恩を蒙り、これらの記事を読み、人ごとではいられない。ましてや『近世文学研究』を発行しているゆえになおさらである。


    研究者支援に向けて
 いつぞや小生のブログでも書いた事だが。
 古典文学は文化遺産であり、それを研究する方が大勢おられる。松永貞徳は、公開講座を開いて、学問の大衆化を図ったように、文学研究の大衆化が必要ではなかろうか。
 古い話だが、フランスのミッテランが、日本の首相に「おくのほそ道」の事を訊ねたら、その質問に答えらなかった。それいらい、ミッテランはその首相とは一言も口も利かなかったという話がある。
 ミッテランは日本贔屓で知られているが、優れた日本の古典を、もっと日本人が身近に接するような環境整備も必要であろう。文学研究が大衆化すれば、若手研究者の活躍の場が増えることは、間違いないだろう。
 『近世文学研究』を発行していて、感じることは、とりわけ厳しい環境に置かれている研究者に対して(理想はNPOでも立ち上げて)、『近世文学研究』を通じて支援していければ、と考えている。どのような形で支援すればいいのか、模索中であるが。何人か集まればNPO法人化にしてみたい。それによってぐっと視界は開ける。若手研究者の発表の場を提供し、さらに講演会を開催し、彼らを講師とすることも可能でではなかろうか。どなたか共感して下さる人がおられれば、ご一報願いたい。ちなみに『近世文学研究』の編集を無償で行い、その売上の全額を若手研究者のために援助している(購読者が少ないので金額としてはわずかであるが)。
 本誌の定期購読を希望する方が身近におられれば、ご紹介して戴きたい。

 高名な免疫学者で知られる多田富雄は、多大な功績を残した。その一方で、すぐれた著作がある。著書の多くはエッセイであるが、どれも珠玉である。多田は学生時代から、能楽に造詣が深く、鼓は素人の域を遥かに超えている、と言われるほどであった。原爆や脳死を題材に、多くの新作能を手掛けた。多田が能舞台で羽織っておられた裃には、免疫学で使われる記号があしらわれていた。
 昨年、鬼籍に入られた。2007年に刊行された『寡黙なる巨人』を、いつしか読もうと思いながら、そのままにしておいた。桜が咲き始めた或る朝、ふと思い出して読んでみた。
 多田富雄は、2001年5月2日に旅行先の金沢で、脳梗塞で倒れ、重度の後遺症が残り、爾来、闘病生活を送りながら執筆活動を行った。脳梗塞に遭遇したが、幸い命は助かったものの、身体的な自由を奪われた。構音障害で声を失い、さらに右半身麻痺により筆を持つことが不能となり、嚥下障害で飲食が出来なくなった。
 そのような状態にもかかわらず、強靭な精神力で歩行訓練、言語機能回復などのリハビリに励み、さらにワープロを習い、執筆活動を再開した。本書『寡黙なる巨人』は、そのような状況下で書かれて「小林秀雄賞」を受賞した。
 利き手でない左手のみで、ワープロで文字を入力していくわけであるから、健常者の十倍の時間を要して、キーボードを打つ。そこには凝縮された言葉と行間には、多田の思いが詰まっている。『寡黙なる巨人』は単なる闘病記ではない。中身を触れることは不要であろう。身体的自由を奪われたことにより、生きることを意識していく。

  旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

 芭蕉の晩年の句のごとく、脳梗塞で伏し、三日のあいだ生死の境をさ迷いながら、謡曲「羽衣」を謡い、自分が生きていることを悟ったと言う。多田富雄は、その時から寡黙の人となったのである。リハビリを開始した時から、彼の中にはもう一人の自分が生まれた、と自覚する。
 多田は白洲正子と深い交友関係にあった。正子は小さい時から能を習っていたので、多田との会話では「あの曲のあの場面」と言えばすぐに話が通じる仲であった。正子が亡くなり、10本目の新作能「花供養」を書かれた。
 正子の書斎からは庭の藪椿が見えた。こよなく白椿を愛した。正子の面影を彼女が愛した白椿と重ね、正子への思いを、謡曲の詞章に織り込んだ。多田は正子にもう一度会いたいという気持ちが強かった。晩年の正子がふとみせる寂寥感を、後場の老婆に託した。2008年12月26日、白洲正子没後10年追悼公演、一夜限りの「花供養」が行われた。多田は能楽堂にいくことは、死者と会うため、と言っておられたことが印象的である。両親、兄弟、恩師らと会うためである。
 多田も死者になって、今ごろ正子を来世で能の話をしているだろう。
 
 小生の拙宅は、柿生緑地の中にあり、窓から山桜が見える。今年の春は、退屈しのぎに、ひねもす桜を見ていた。桜が咲き開いてから、春の嵐が二度ほど吹き荒れた。だが、桜は散らなかった。桜は風で散るのではなく、重力でもない。季節の移り変わりの中で、自らの重さに耐えきれず、桜は散るときを知るのである。花が散るから、若葉は生えてくるのだ。やがて、秋になり落ち葉が落ちなければ、来春には若葉は生えてこない。それは自然の営みに他ならない。
 『寡黙なる巨人』を読み、多田富雄の人生と窓から見える山桜が散る姿を重ねてみた。小生にとって今年は感慨深い桜となった。
 
  さまざまな事おもひだす桜かな
              祝「うた新聞」創刊


 あたかもそれを祝福するように、まんめんの笑みを浮かべた桜が咲きひらいた。うららかな陽気に誘われて、ついうとうととしているさなかに「うた新聞」が届いた。
 4月にあらたに月刊の短歌総合新聞が創刊された。編集兼発行人は「いりの舎」の玉城入野氏である。長年、短歌新聞社で編集者として第一線で活躍されて、旧蠟に詩歌専門の出版社「いりの舎」を立ち上げ、すでに歌集『青白き光』を刊行され、話題となっていることは、周知のとおりである。 実力派の編集者である。
 記念すべき「うた新聞」の創刊号を飾る、1ページ目には「今月の巻頭作家」の欄に、短歌界を牽引する馬場あき子さんと清水房雄さんの作品がそれぞれ15首が、据えられている。
 余談だが、馬場さんは小生が蟄居する柿生に住まっておられ(同じ町内で)、短歌の他に能にも造詣が深い。いつしか国立能楽堂で、西野先生が書かれた新作能「草枕」が演じられるまえに、馬場さんとの対談があった事を思い出す。一言ひとことに重みと鋭さあった。馬場さんの歌には、ゆったりとした謡曲の調べに似たリズムが感じられる。

 「天も花に酔へりや」といふ小謡に下級藩士は野にて酔ひたり

 江戸時代では、謡は武士の必須の教養であった。参勤交代で、地方から集まった武士たちは、それぞれのお国訛があったが、謡の文句は彼らにとって共通の言語であったであろう。江戸城の近くにある武家屋敷では、謡の文句が日常語のごとく耳にしていたであろう。
 この歌は麗らかな春の気分に満ち、朗々と「天の花に酔へりや」と謡う。
 江戸時代では、謡曲の文句を裁ち入れた俳句が多く詠まれた。とりわけ岩城藩の大名、内藤風虎は。風虎の屋敷は溜池にあり、そこは文学サロンとして開放された。知的空間として多くの俳人を輩出した。その中には松尾芭蕉もいた。俳諧は坐の文学と言われ、さまざまな人との交流が行われていた。
 今年の冬は例年になく寒く、桜が咲くのを待ち侘びていた。こうして咲き誇る桜日和に「うた新聞」が創刊された。 本紙も交流の場であることに代わりがない。
 「うた新聞」の内容をごく簡単に紹介しよう。
 1ページ目「今月の巻頭作家」「巻頭評論」
 2ページ目「添削授業」「作品時評」
 3ページ目「今月のうたびと」「歌壇時評」
 4ページ目「在郷歌人の肖像」
 5ページ目「作品集」
 6ページ目「書評」
 7ページ目「トピック・案内」
 8ページ目「各地リポート」
 本紙はパブロイド版8ページでありながら、読みごたえのある、充実した内容である。編集後記の一節を引こう。

 小紙は、短歌を文学として捉えるとともに、各地方の短歌作者の交流の場にしていきたいと考えております。

 中央と地方の短歌作者の交流が大切である。また、歌人らは結社だけに留まらずに、結社間の交流が積極的に行われるべきである。本紙の使命はそこにある。もちろん、短歌のみならず、俳句作者との交流も期待したい。
 そして高校や大学で短歌を作っておられる若者も本紙に登場して、短詩形文芸に新風を送ってほしい。
 「うた新聞」がこれから発展しすることは、短歌や俳句を嗜む人が増えて、活気づくことを意味する。願ってやまない。


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