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 だいぶ前に啓蟄が過ぎ、これから本格的に虫や動物たちが起きだす。
 小生も冬眠から覚める時期を知り、原稿と格闘している。『近藤忠義 人と学問』第5集の編集作業の佳境に差し掛かっている。近藤先生は、法政大学日本文学科の基礎を作られた。古色蒼然となった『日本文学原論』は、小生の思考回路では何度読んでも理解しかねる。三十三回忌を迎える際に、業績を再検討しようとし、歴史社会学派研究が始まった。「近藤先生を偲ぶ会」と「歴史社会学派研修会」の共著『近藤忠義 人と学問』の最終集の原稿が集まり、編集をしているというわけ。
 そうこうしているうちに、桜は散り始めている。今宵は、小生が蟄居している柿生緑地の山桜を、盃に思い浮かべつつ、お酒を飲みながらくだらないことを考えている。嗚呼、若年性痴呆症の始まりか。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
この句には古今東西あまたの英訳がなされている。
たとえば正岡子規の英訳は
The old mere! / A frog jumping in, / The sound of water である。
これに対し、まさしく古池に一石を投じた訳が、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の、
Old pond-frogs jumped in-sound of water である。子規とハーンの大きな違いは、「蛙」は単数か複数か、である。たったこれだけのことなのに、句の背後にある世界が全く別のものになってしまうから不思議だ。管見の範囲では「蛙」は単数が圧倒的である。どちらが正しいとか、間違いとか論ずるより、夫々を想起して句を読み解くとなかなか面白い。短詩形文芸の鑑賞の醍醐味がそこにあるのではなかろうか。
 そもそも日本語には、単数・複数の区別は諸外国語に比べて分りにくい。たとえば、フランス語ではLe La Lesの冠詞で区別されるわけで、単数・複数を提示しなければ言葉として成立しなくなる。しかし日本では「蛙」といっても、単数・複数、どちらとも取れてしまう。言語そのものに単数・複数の区別が曖昧であるがゆえに、大げさにいえば、日本人はあるものを見る場合、単数か複数か意識して見ていないことなる。ただ対象を凝視するのみである。蛙が何匹いるかはさほど問題にしていないのだ。
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮 芭蕉
 この句の真蹟画賛では、二十七羽の烏が描かれている。もしこの画が無ければ、烏は何匹いるか解釈が分かれるだろう。
俳句は、作者の意図どおりに鑑賞するのは奇跡に近いだろう。ならば、もっと自由に、そしてその句に対して最高の鑑賞力をもって訳すことだろう。とかく現代俳句はどうもまじめに成り過ぎるきらいがあり、つまらない。俳諧は遊びなのだ。笑いの文学である。自由な発想をもって鑑賞すべきだはなかろうか(つい力が入ってしまう)。
 それはともかく。酔いにまかせて空を見上げると、今宵の月が幾重にも見えてくる。月は単数か、複数か。
いや立派な痴呆症である。
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 梅が咲き始めた2月21日に、前田金五先生が亡くなられた。享年92歳であった。
 前田先生は、近世文学研究に多大なる業績を残され、とりわけ西鶴研究では多くの注釈書を上梓。学恩を蒙った方はさぞかし多いことだろう。
 また、文学に造詣が深くない方も知らず識らずのうちに前田先生学恩を浴されたことだろう。だれしもが、高等学校で古文の授業で使用する古語辞典を購入されただろう。『岩波古語辞典』(初版1974年12月25日)において、前田先生は子細に用例を調査されて、多くの語句を解説されている。江戸時代の言葉を丹念に調べあげ、いまも版を重ねて、古典文学を読むうえで、それは必携の名著である。小生も座右の書としてデスクに置いている。
 小生は、前田先生とは面識はないものの、『近世文学研究』の編集人になってから、先生からは何度かお手紙を頂いた。『近世文学研究』第2号では浅沼先生の「西鶴発句考 ―諺の両義化をめぐって」、第3号では深沢眞二先生・深沢了子先生の「宗因独吟「世の中の」百韻注釈」において、それぞれ読後感の原稿を頂いた。原稿を書いたころは既に90歳となっておられた。ご高齢になっても研究に対する情熱は衰えていなかった。
 葬儀は先週行われた。ここ数日、陽気もよく一気に暖かくなり梅が散り始めていた。「梅」が「散る」とは正しい表現ではない。「梅」は「こぼれる」というべきである。路上にこぼれた小さく丸い花びらはあたかも玉のようである。まさに「こぼれる」という表現にぴったり。前田先生は、あの世から梅がこぼれている風景を見ておられるだろうか。
 『近世文学研究』は発展するよう見守っていて下さい。御冥福をお祈りします。 

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