浅沼璞の「西鶴論」第三弾、
『西鶴という俳人』 新刊紹介
浅沼璞さんのおよそ6年ぶりとなる単著がこのほど刊行された。それが『西鶴という俳人』だ。
目次
Ⅰ部【基礎篇】
第一章 ケーザイ俳人の目
第二章 フーゾク俳人の目
第三章 ゲーノウ俳人の目
第四章 エンタメ俳人の目
Ⅱ部【応用篇】
第一章 一、「俗の韻律」の転位
二、「知」の共有化・均質化への再挑戦
第二章 一、両義的鑑賞の可能性
二、諺「銘々木々」の両義的鑑賞
三、諺「月夜に釜」の両義的鑑賞
付録
・ 連句にみる江戸の生活
・ 西鶴略年譜
6年前の浅沼さんの単著は、新潮新書『西鶴という鬼才』であった。今回はそれを如何に越えるかが楽しみであった。西鶴は晩年の10年に多種多様な小説を上梓している点から、あるいは処女作『好色一代男』と、ほかの作品との文体を比較し、背後に「西鶴プロダクション」が存在していたらしい、とういう。もはや、それは定説になりつつあるが、『西鶴という俳人』では、俳人としての西鶴の目線から、それらの小説を探究した力作であることに異論はあるまい。
ケーザイ俳人に軸足を置き、フーゾク俳人・エンタメ俳人について、横断的に論じている点は前作より深化したところである。もはや方法論が重要かもしれない。本書から、新たな側面の西鶴像が浮彫になった。未読の方は是非とも本書を読んでいただきたい。とくにゼミ生は必携。レポートに「感動しました。座右の書にします」と書き添えれば、もしかしたら、加算点あるかもしれない(保障しかねるが、悪しからず)。
西鶴を論ずるに既成の方法では捉え切れぬ。それを克服すべく浅沼璞の「西鶴論」は、刺激的な一冊に仕上がったことは、喜ばしいことである。だが、読書子は浅沼さんに大いなる期待を抱いているし、新たな西鶴論に挑戦してほしいと思っているはず。元禄メディアミックスという立場から、あるいは第二章にみるような西鶴の発句鑑賞によって。西鶴が諺を駆使した句を、浅沼さんが両義的な切り口から句を鑑賞したことは瞠目すべき点である。そろそろ西鶴を読み替える時期に来ているのではなかろうか。西鶴の小説や句には諺が効果的に使われ、従来の研究ではまだ論じきれていない。諺は庶民の哲学の宝庫であるがゆえに、それを継続的に探究し続けることによって、西鶴の実像と人生観が見えてくるだろう。また、西鶴は妻を早くなくし、乳幼児の我が子を育てる。いわば元祖イクメンなのだ。西鶴は作品ばかりが注目されるが、人間西鶴をもっと書いて欲しい、希う。
昨年、浅沼氏は体調不良のため、緊急入院したと聞く。どうか体を大切になさって、どんどん本を書いてもらいたい。