FC2ブログ

プロフィール

獺祭堂主人

Author:獺祭堂主人
相模之國柿生隠棲
主夫兼編集者
アルコール常用者

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

お知らせ

①粋曜喫茶室編集『江戸文化カフェ』発行

リンク

獺祭堂のお客様

検索フォーム

RSSリンクの表示

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

 
 『俳諧無心』会報四号拝読


 『俳諧無心』会報四号が浅沼さんから届いた。秀逸句が多くあり、拝読して楽しいひと時を過ごさせて戴いた。勝手に句評してみよう。
 春の糸うごめている物干し竿   塩人
 くちづけの代わりとしての春苺  正考
 八割はおんなじ名字里笑う    智南美
 飴玉を噛み砕いては春北斗    理
 ひし形に空切り取って雛流し     桃子
 のどやかに歩けば何か鳥過ぎる  璞
  
   塩人君の句は「物干し竿」に「春の糸」が蠢いてくるのを発見した。俗としての美を的確にとらえた。「物干し竿」に何が干してあるかは、気になるところ。「塩人(ソルト)」の名に相応しく、塩を一つ摘まみ加えた、いい塩梅の句に仕上がった。
 正考君の「くちづけの代わりとしての春苺」は、苺から、うら若き乙女を連想させる。最近の苺は「♡💛乙女」のなどといったよう名前がついてる。このネーミングで騙される漢は、まさに愚者だ(愚生のことか)。しかし、この句は苺を「くちづけの代わり」としている点が、まさに青春まっただ中。愚生が若かったころ、唇を「たらこ」とか「明太子」とか揶揄していた。それはともかく。来年は「代わりとして」「」ではなく、本物の唇であるよう、ご健闘をお祈りしたい。「たらこ」でも「明太子」でもいいではないか。成就した折は、赤裸々に体験談をレポート十枚以内に提出のこと。
 たいがい、過疎の村では「八割はおんなじ名字」であるが、「里笑う」の下五が効いている。このような句を詠める人は、八十路過ぎの老女だが、作者の智南美さんは、うら若き乙女。もしかしたら年齢偽装の女学生。まるで俳句歴60年のような風格が感じられる。きっと、智南美さんはトランジスターグラマーに違いない。
 「飴玉」をガリッと「噛み砕い」た時の爽快感と「春北斗」との取り合わせが妙味。よく読めば、どことなく春愁を感じさせるところが、この句の懐の深い世界。小指の思い出ではないが、噛めば噛むほど、奥が深い。この句によって、理君の歯が差し歯でないことが証明された。
 昔は雛を川に流した。それが雛人形が豪華になり、やがて飾雛に変わったのは江戸初期。雛祭では菱餅を食が、「ひし形に空切り取って」というように、青空をひし形に切り取って、菱餅に見立てたのは、桃子さんの食欲の賜物。「おひつごとおかわりしては」の句が裏付けとなっている。桃子さんに、高脂肪・高カロリーのスイーツ一年分とタニタの体脂肪計を贈りたい。
 「のどやかに歩けば」棒に当たらず、「何か鳥過ぎる」と詠む、璞さんはいつから哲学者になったのだろうか。意味深長な句とは、不意にその光景が理解できるもの。今宵は、璞さんの句を肴に温燗で一杯献上。璞さんは『西鶴という俳人』を上梓し、饒舌だけではなく、ご健筆でなにより。第4弾「西鶴論」が俟たれる。
 まだまだ、取り上げたい句は多い。が、酔いが回ってきたので、印象に残った句を挙て、これにて擱筆。擱筆。

 春眠の戸を叩くなり雨の音   四龍
 エンターキーもどる反動冴返る 亜樹
 斑雪ながむる街の温泉かな   友郁
 戀猫の足らぬことばに敗れたり 祥子
 春日森鹿の目ぞ知る春霞    澪
 この穴は今も昔も蜥蜴出づ   綾

 追伸
 桃子さんの句評が遅れてしまったのは、「十字路に」の小学生の元気な姿、「おおひつごと」の豪快さは捨てがたく、選句に迷っているうちに、ついアルコールの誘惑に負けてしまったからだ。 人生、女と酒に要注意!!
 愚生の句評はあてにならぬことは、言うまでもない。浅沼先生のそれとは大きく異なるだろう。要するに、愚生の偏屈さからくるもの。「獺祭主人の退屈日記」を「偏屈日記」に変えねばならないかも。
 愚生の失礼極まる句評にめげずに、毎号秀句が登場するのは、若者たちの「理由なき反抗」が、そこにあるからだろうか(君たちはこの映画知らないだろうなぁ)。それとも愚生の何とかの冷や水か。支離滅裂であしからず。
スポンサーサイト
  浅沼璞の「西鶴論」第三弾、
  『西鶴という俳人』 新刊紹介


 浅沼璞さんのおよそ6年ぶりとなる単著がこのほど刊行された。それが『西鶴という俳人』だ。

目次
Ⅰ部【基礎篇】
第一章 ケーザイ俳人の目
第二章 フーゾク俳人の目
第三章 ゲーノウ俳人の目
第四章 エンタメ俳人の目 
Ⅱ部【応用篇】
第一章 一、「俗の韻律」の転位
二、「知」の共有化・均質化への再挑戦
第二章 一、両義的鑑賞の可能性
     二、諺「銘々木々」の両義的鑑賞
     三、諺「月夜に釜」の両義的鑑賞
付録
・ 連句にみる江戸の生活
・ 西鶴略年譜

 6年前の浅沼さんの単著は、新潮新書『西鶴という鬼才』であった。今回はそれを如何に越えるかが楽しみであった。西鶴は晩年の10年に多種多様な小説を上梓している点から、あるいは処女作『好色一代男』と、ほかの作品との文体を比較し、背後に「西鶴プロダクション」が存在していたらしい、とういう。もはや、それは定説になりつつあるが、『西鶴という俳人』では、俳人としての西鶴の目線から、それらの小説を探究した力作であることに異論はあるまい。
 ケーザイ俳人に軸足を置き、フーゾク俳人・エンタメ俳人について、横断的に論じている点は前作より深化したところである。もはや方法論が重要かもしれない。本書から、新たな側面の西鶴像が浮彫になった。未読の方は是非とも本書を読んでいただきたい。とくにゼミ生は必携。レポートに「感動しました。座右の書にします」と書き添えれば、もしかしたら、加算点あるかもしれない(保障しかねるが、悪しからず)。
 西鶴を論ずるに既成の方法では捉え切れぬ。それを克服すべく浅沼璞の「西鶴論」は、刺激的な一冊に仕上がったことは、喜ばしいことである。だが、読書子は浅沼さんに大いなる期待を抱いているし、新たな西鶴論に挑戦してほしいと思っているはず。元禄メディアミックスという立場から、あるいは第二章にみるような西鶴の発句鑑賞によって。西鶴が諺を駆使した句を、浅沼さんが両義的な切り口から句を鑑賞したことは瞠目すべき点である。そろそろ西鶴を読み替える時期に来ているのではなかろうか。西鶴の小説や句には諺が効果的に使われ、従来の研究ではまだ論じきれていない。諺は庶民の哲学の宝庫であるがゆえに、それを継続的に探究し続けることによって、西鶴の実像と人生観が見えてくるだろう。また、西鶴は妻を早くなくし、乳幼児の我が子を育てる。いわば元祖イクメンなのだ。西鶴は作品ばかりが注目されるが、人間西鶴をもっと書いて欲しい、希う。
 昨年、浅沼氏は体調不良のため、緊急入院したと聞く。どうか体を大切になさって、どんどん本を書いてもらいたい。


| ホーム |


 ホーム