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 桜が咲き開き、いよいよ入学シーズンとなった。
 3月22日付け「東京新聞」の社説で「大学は何のためにある」という衝撃的な見出が目に入ってきた。そこには今後の大学の存在を危惧する内容がかかれている。
 日本の四年制の大学は七百七十五校もあり、少子化でいよいよ大学全入時代に突入する。大手予備校が相次いで倒産し、経営難に瀕している大学が少なくない。愚生の知る大学では、15年の間で、受験生の数が半数以下になっている、名門大学がある。
 高校生を呼び込もうと、オープンキャンパスで、あの手この手で誘い込む。推薦入試やAO入試で入学する学生が半数。学力のない学生が、その大学に入学し授業についていけない学生のために、高校レベルの授業から始めるところもあるそうだ。
 「文学部」といった名称は消え、いっけん魅力的な学部の名称に書き換えられてしまった。就職に有利なカリキュラムが増え、そのため『源氏物語』よりもビジネス英語、ピタゴラスの定理よりも商業簿記。つまり、大学は就職のための予備校なのだ。さらに言えば、ハローワークの職業訓練校だね。
 昨年の八月の文科省の通達で「教員養成系、人文社会科学学部に「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」を促」しているのは「自前で人材を育てる余力を失ってしまった企業が大学に求めたのは仕事に役立つ実学教育や即戦力人材の養成」であると。
 大学は何のためにあるのか、という根本的な存在理由が、文科省の通達によってゆがめられてしまったような気がする。がんらい、大学は研究と高度な教育の場であるが、実学重視の文科省の方針では、この先の日本の未来はどうなるのか。ノーベル賞後進国になることは間違いないだろうね。大学の教員は十九万人にのぼるそうだ。地道な研究を続けている方や、恵まれない報酬で講師として、熱心に教鞭を執っている方も多い。文科省が示した指針を読んで、かれらは何を思うだろうか。文科省のお役人は、大学教員の気持ちを全く理解していないのではないか。
  「大学は何のためにある」という疑問は「文科省のお役人は何のためにいる」のか? と言い換えられないか。

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 「東京新聞」3月14日付けの31面に「北斗星」の最後の雄姿が載せられ、センスあるレイアウトの見出しで「惜別」「ラストラン」と見ある。そして14日に北陸新幹線が開通する一方、「現役最後の寝台特急ブルートレイン「北斗星」は定期運行を終える」とあり「約三千人の鉄道ファンも詰めかけた」と。少し前までは「夜行列車」とか「夜汽車」と呼ばれていたが、実に旅愁に満ちた言葉であった。今は死語になってしまった。愚生は数年前に道後温泉に行った帰り、松山から京都まで夜行のブルートレインに乗ったことを、今も鮮明に甦ってくる。愚生のような人間は古いのかもしれん。当世鉄道ファン如何に。
 旅といえば、鉄道が宜しい。この記事を読み、内田百閒の「特別阿房列車」を無性に再読したくなった。さっそく、柿生から新宿までの小田急線の車内で読んだ。冒頭文には「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。用事がないのに出かけるのだから、三等や二等には乗りたくない。車の中で一等が一番いい。私は五十になった時分から、これからは一等でなければ乗らないときめた」という、なんともユーモアのある文章だろう。この小説は用もなく東京から大阪へ、汽車で出かけるだけの話。たった、それだけのことを、ここまで面白く書ける作家は内田百閒しかおらぬ。くだらぬものが文学として、今もよみ継がれている。まさに旅は気まぐれ。
 愚生は新幹線は嫌いだ。しかしTGVは好きだ(愚生は我儘なのだ)。嫌いな理由はトンネルが多いからだ。車窓をみる楽しみを、新幹線は奪ってしまった。北陸新幹線も、おそらくトンネルばかりだろう。旅を半減させてた、路線計画をたてたJRの職員のセンスのなさに、愚生は憤りを覚えるばかり。
 と言っても…。愚生が目くじらを立ててもどうにもならん。最近は老若男女、猫も杓子も社内ではスマホばかり見て、車窓を見る人は少なかろう。今年の東京の雪景色を車内をから見て、感動をした人は皆無に等しいだろう。北陸新幹線に乗りながらスマホを見ているだけだろうね。もはや鉄道は、あくまでも移動手段にすぎぬ。旅の楽しみが変わってゆくのも仕方あるまい。もはや鉄道の旅は終わった。ただ「北斗星」が姿を消すのは寂しいだけ。
 嗚呼、鉄道員よ。「特別阿房列車」を読みたまえ。

 
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 徒然なるままに『徒然草』を通読。
 中学の頃「徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆく由無し事を、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」と暗誦させられた。『徒然草』に限らず、古典作品の冒頭の文章は一度覚えたら一生忘れられない。
 だがしかし、親しんできたと思っていた作品を通読した人はそう多くないのかもしれない。たとえば『源氏物語』しかり、『平家物語』しかり、『枕草子』しかり、そして『徒然草』も。
 愚生は老境に差し掛かったが、『徒然草』を最後まで読んでいなかった。鬼籍に入る前にと思い、『徒然草』を読んでいる。島内裕子校訂・訳『徒然草』(ちくま学芸文庫)は、「本書が目指すのは「通読できる徒然草」を念頭におかれ、まさに愚生のために書かれた本(勝手に決め付けているが)。語釈は意訳に含め、兼好の世界を分かりやすく描いている。想像力が膨らむ。『徒然草』の入門書としても宜しい。島内氏は存じ上げていないが、『徒然草』の専門家だけでなく、中世文学さらに、広く古典文学に精通しておられるようだ。蓄積された知識を難しく語ることなく、じつに丁寧に説く。
 『徒然草』は人生観や無常観が書かれた随想、と中学や高校の国語の授業で植えつけられた。よって草庵の文学とか隠者の文学といったイメージがつよい。改めて読んでみると、宮廷における有職故実のことや、第104段のように『源氏物語』の一場面を想起させるような章段があり、身近なたわごとなどが綴られていたりして、内容は多岐にわたり面白い。通読によって新たなる発見がある。
 江戸初期では、松永貞徳が庶民のために古典文学公開講座を開いた。貞徳の高弟の一人北村季吟は、俳諧師と古典文学研究の研鑽を積み、数多の注釈書を著した。季吟の句で
  万事は皆彼岸桜と一盛り
という作品がある。これはかつての師匠の貞室(後に不和となる)への追悼句である。この句の内容を理解するには『徒然草』を知らないと話にならぬ。第38段に「万事は皆非なり、言ふに足らず、願うに足らず」を踏まえてつくられているからだ。もちろん『新撰朗詠集』の「万事は皆非なり」を吉田兼好は『徒然草』で引用しているが。
 「皆非なり」を「皆彼岸」と詠み替えて、さらに1拍おいて「彼岸桜」とし、貞室への哀悼句へと転じている。

 彼岸におります貞室先生、そちらの生活はいかがですか。いま現世では彼岸桜が盛りを迎えています。やがて桜は直ぐに散ってしまうことでしょう。先生もあの世へ逝ってしまいましたが、桜の命は、あたかも人生のように儚いものですね、と。
 

 もちろん無常観を織り交ぜた句だが、暗さはなく、華やかな印象を与えてくれる。
 『徒然草』は江戸時代ではよく読まれたが、やはり通読した人は少なかろう。
 春は三寒四温を繰り返しながら訪れる。先日キャンパスの草叢に蕗の薹が顔を出していた。あたかも「もーすぐ春ですね~」といったところ。愚生には春はまだ遠い。もしかしてもう来ないかもしれない。だが『徒然草』を読み終えるところだ。

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