FC2ブログ

プロフィール

獺祭堂主人

Author:獺祭堂主人
相模之國柿生隠棲
主夫兼編集者
アルコール常用者

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

お知らせ

①粋曜喫茶室編集『江戸文化カフェ』発行

リンク

獺祭堂のお客様

検索フォーム

RSSリンクの表示

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

 だいぶ前に啓蟄が過ぎ、これから本格的に虫や動物たちが起きだす。
 小生も冬眠から覚める時期を知り、原稿と格闘している。『近藤忠義 人と学問』第5集の編集作業の佳境に差し掛かっている。近藤先生は、法政大学日本文学科の基礎を作られた。古色蒼然となった『日本文学原論』は、小生の思考回路では何度読んでも理解しかねる。三十三回忌を迎える際に、業績を再検討しようとし、歴史社会学派研究が始まった。「近藤先生を偲ぶ会」と「歴史社会学派研修会」の共著『近藤忠義 人と学問』の最終集の原稿が集まり、編集をしているというわけ。
 そうこうしているうちに、桜は散り始めている。今宵は、小生が蟄居している柿生緑地の山桜を、盃に思い浮かべつつ、お酒を飲みながらくだらないことを考えている。嗚呼、若年性痴呆症の始まりか。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
この句には古今東西あまたの英訳がなされている。
たとえば正岡子規の英訳は
The old mere! / A frog jumping in, / The sound of water である。
これに対し、まさしく古池に一石を投じた訳が、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の、
Old pond-frogs jumped in-sound of water である。子規とハーンの大きな違いは、「蛙」は単数か複数か、である。たったこれだけのことなのに、句の背後にある世界が全く別のものになってしまうから不思議だ。管見の範囲では「蛙」は単数が圧倒的である。どちらが正しいとか、間違いとか論ずるより、夫々を想起して句を読み解くとなかなか面白い。短詩形文芸の鑑賞の醍醐味がそこにあるのではなかろうか。
 そもそも日本語には、単数・複数の区別は諸外国語に比べて分りにくい。たとえば、フランス語ではLe La Lesの冠詞で区別されるわけで、単数・複数を提示しなければ言葉として成立しなくなる。しかし日本では「蛙」といっても、単数・複数、どちらとも取れてしまう。言語そのものに単数・複数の区別が曖昧であるがゆえに、大げさにいえば、日本人はあるものを見る場合、単数か複数か意識して見ていないことなる。ただ対象を凝視するのみである。蛙が何匹いるかはさほど問題にしていないのだ。
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮 芭蕉
 この句の真蹟画賛では、二十七羽の烏が描かれている。もしこの画が無ければ、烏は何匹いるか解釈が分かれるだろう。
俳句は、作者の意図どおりに鑑賞するのは奇跡に近いだろう。ならば、もっと自由に、そしてその句に対して最高の鑑賞力をもって訳すことだろう。とかく現代俳句はどうもまじめに成り過ぎるきらいがあり、つまらない。俳諧は遊びなのだ。笑いの文学である。自由な発想をもって鑑賞すべきだはなかろうか(つい力が入ってしまう)。
 それはともかく。酔いにまかせて空を見上げると、今宵の月が幾重にも見えてくる。月は単数か、複数か。
いや立派な痴呆症である。
スポンサーサイト

<< 和田先生&浅沼先生リミックス | ホーム | 御冥福をお祈りします >>

コメント

コメントの投稿

URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


 ホーム