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 お彼岸になると、猫の額より狭い愚生の庭には、赤ではなく白い彼岸花が咲く。
 白い彼岸花は珍しい、と思っていたら、近所の庭にも咲いているではないか。馬齢を重ね、老いぼれてきたが、今更自分の見識の狭さを痛感する。
 先日、知り合いのSrから封書を戴いた。恐る恐る封を開く。コピーはが3葉入っていて、付箋が貼ってあった。そこには「芭蕉が諜報員だったとは知りませんでした」と書かれていた。コピーは新潮社刊『波』9月号のものであった。
 コピーを開くと「芭蕉という修羅」というタイトルに副題「⒙ 『おくのほそ道』というカムフラージュ」とある。著者は嵐山光三郎氏。
 著者によると、「5年間、『ほそ道』の北陸路を廻っているが、現場に行くたびに新しい発見があった」そうだ。それはそれは、ご苦労さん。
 さらに読み進めると、うっむ。芭蕉は諜報員であるとのこと。いくつかの根拠として、「『ほそ道』本文には三月二十七日の出発」に対して「曾良の『旅日記』には三月二十日出発」の記述。その矛盾を「芭蕉は千住に六泊したことを隠そうとして」としていることに、愚生はうんざりした。
 20年も前に、芭蕉隠密説・忍者説が巷間をにぎわせたことは記憶に新しい。今から17・18年ぐらい前だろうか、門人の落梧にあてた芭蕉の書簡(3月23日付け)が発見され「此の廿六日、江上を立ち出で候ふ」の記述があった。この書簡発見で、嵐山氏が指摘した根拠は泡沫となった筈。それも十数年前に。今更これを持ち出すとは。
 たしかに、曾良の日記は確かに克明書かれているが、それは正しく書かれている根拠にはならぬ。
 読書子も経験があるだろうが、小学校の夏休みの宿題で絵日記というものがあった、かと思うが、毎日書いた人は稀だろう。何日かまとめて書いた人も少なくない。愚生は無精者なので、夏休み最終日に慌てて書いたものだ。よって当日の天気はいい加減であった。もちろん、愚生と曾良を一緒にしてはならなが。まぁ、曾良の誤記を乱用するのはどうか、と思う。
 それはともかく、いくら『おくのほそ道』が事実と整合性がないからといって、諜報員の裏付けにされるとはいかがなものか。
 極めつけは、「日光東照宮工事の動向と仙台藩内にくするぶ幕府への謀叛の動きを書きとめるのは曾良である」とし、「『ほそ道』への旅の出発は最初は二月であったのが三月にずれこんだ。日光工事がまだ始まっていなかったから」とする記述には閉口する。杉風筆の懐紙を読むと、遅れた理由が解る。 嵐山氏はそれを読んでいればそのような間違った推測はしなかった筈。
 嵐山氏は、手垢のついた資料をもとに想像力豊かに論ずるのは言論の自由だが、Srは「芭蕉という修羅」を読み、「芭蕉が諜報員だった」と迷わせてしまった責任は大きい。『おくのほそ道』を冒涜する行為であるといわねばならぬ。
 たしかに、芭蕉の40歳までの史料は極めて少ない。評伝を読むと、ページ数から割り出すと、40歳までが20%に満たず、40歳から死去するまでが80%に及ぶ。いずれも推計。よって、『おくのほそ道』は40歳過ぎてから旅立ったから、芭蕉の真実が解っている。それを覆すのは、むつかしいだろう。
 芭蕉をそんなにしてでも「諜報員」に仕立て上げたければ、新出の資料をもって論じてほしい。このままでは『芭蕉という修羅』の評価が下がるであろう。
 芭蕉の年譜を書き替えるぐらいの覚悟で、芭蕉が諜報員であることを証明して戴こう。嵐山氏に期待したい。ご健闘をお祈りする次第である。

 
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